バブル経済の誕生1


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では、バブル経済はいつ、どのような形で始まったのだろうか。

一般的には、1985(昭和60)年のプラザ合意がきっかけで起こったというのが定説になっている。プラザ合意とは、G5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レート安定化に関する合意を言う。会場となったアメリカ合衆国・ニューヨーク市のプラザホテルが会場になったことにちなんで、こう呼ばれるようになった。

ドル高是正に向けたこの合意によって、先進5カ国は外国為替市場で一斉に「ドル売り、自国通貨」買い」の協調介入を開始した。その結果、プラザ合意後、ドルは他国の通貨に対して全面安になり、円は85年(昭和60年)8月の237円(銀行間取引中心レート)から、86年(昭和61年)7月には154円へと、一年間で83円も高くなった。

急激な円高は日本に一時的な不況をもたらしたが、景気は87年(昭和62年)から急激に回復。日本はバブル経済へと突入していく。

バブル経済の直接の引き金となったのはプラザ合意だったのは確かだが、日本国内ではそれよりずっと前、1960年からジワジワとその下地が作られ始めていた。

そもそもの発端は1960(昭和35)年、池田内閣のもとに始まった、長期経済計画「国民所得倍増計画」である。当時、13兆円だった国民所得(国民総生産)を翌1961(昭和36)年からの10年間で倍の26兆円にしようという経済計画である。輸出増進による外貨獲得を主要な手段として所得を倍増させ、雇用を拡大して質病問題を解決し、完全雇用を目指したこの政策は「所得倍増」という魅惑的な言葉で国民の心を捉え、期待した以上の成果を上げた。

 

1970(昭和45)年、「人類の進歩と平和」を掲げた日本万国博覧会(通称・大阪万博)は大成功を遂げ、日本がアメリカに次ぐ経済大国となったことを世界中に見せつけた。

1972(昭和47)年6月に発行された田中角栄著『日本列島改造論』が91万部のベストセラーになる。日本列島を高速道路や新幹線などの高速交通網で結び、地方の工業化を促進することで過疎・過密の問題や公害問題などを同時に解決するというのがその内容だ。また国土のうち北部を工業地帯に、南部を農業地帯にするという持論も展開した。

7月に田中内閣が発足すると日本列島改造ブームが起こる。『日本列島改造論』で開発の候補地とされた地域では土地の買占めが起こり、地価が急上昇。この影響でインフレが起こり、社会問題化していった。

さらに翌1973(昭和48)年10月、インフレに拍車をかける事態が起こる。第4次中東戦争が勃発し、原油公示価格が70%アップしたのだ。

さらにアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油生産の段階的削減を決定。ここで便乗値上げが起こり、パニックに陥った人々が買いだめに走り、日本中からトイレットペーパーが消えるという怪現象が起こった。

こうして高度経済成長は終焉を迎えるが、インフレは止まらず地価は上がり続けた。

そして「地価は永遠に上がり続ける」という「土地神話」が生まれ、銀行は不動産投資にまい進していくことになる。

そしてあろうことか主要な銀行の多くは、非常に重要な位置を占めていた融資審査部門を格下げし、逆に融資拡大を目指す営業推進部門を格上げするという改革を推し進めた。

その背景にはオイルショック後、企業の設備投資が減ったことがあった。80年代前半には主要企業の内部資金による資金調達が55%にも達した。その一方で借入金は70年代半ばから急激に低下するようになり、80年代前半には16%まで低下した。そしてついに90年代前半には5%にまで落ち込んでしまった。

つまり主要銀行のお得意さまであった大企業が銀行からの借入金を大幅に減らしたのである。銀行は安全な借り手を失ったのだ。

雇用を維持するために、大手行は中小企業金融と消費者金融に活路を見出そうとするようになった。製造業は85年代の半ばからの急激な円高に対応するためにリストラを進めていたので上顧客にはなりえず、したがって中小企業の貸出先は不動産、建設、流通などの非製造業となった。

こうして土地神話を信じきり、不動産融資を中心とする危険な貸出に走ったことが、バブル崩壊後の金融危機につながっていく。








三枝
三枝

闘う元銀行支店長・三枝嗣典。関西アーバン銀行で支店長を務め、銀行業務の裏の裏まで知る男。資金調達のお悩み、すべて解決します。

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